“青い衝撃”が墜ちた日

きょうは11月14日。毎年この日になると欠かすことなく目を閉じ思い浮かべる、忘れられない光景がある。

田舎の少年だった私が、電車を乗り継ぎ期待に胸をふくらませてたどり着いたその地で、私の目前で事故は起こった。急降下していく機体が格納庫越しに消え、直後巨大な火球が空に立ち上る光景・・・。

1982年11月14日。航空自衛隊浜松基地で、T-2ブルーインパルス4番機が墜落した日・・・。

この年はブルーインパルスの使用機がF-86FからT-2に変わった年。T-2ブルーのデビューイヤーだった。このころからすでに飛行機大好き少年だった私は、小遣いをやりくりして毎月買っていた航空雑誌に掲載された、青と白に染められた鮮やかなT-2をどうしても見たくなり、父親からペンタックスの一眼レフと望遠レンズ(200ミリくらいだったか)を借り、前夜に使い方を教わり、当日の早朝からわくわくして浜松へと向かった。これが私にとって初めての航空ショーであると同時に、、初めての一眼レフ撮影でもあったのだ。

ブルーの演技も終盤に入り、ダイナミックな「下向き空中開花」が始まった。
ちなみに現在のT-4ブルーにある「レインフォール」(全機が手前に開いてくる)とは似ているが全くの別物で、6機編隊でのループが270度(-90度=3/4回転。編隊は垂直降下姿勢)に達したところで、1番機はループを続行。すぐ後ろで編隊を組む2・3番機は2番機が左に、3番機が右にそれぞれ30度のロールを打ってからの引き起こし。2・3番機の後ろに位置する5・6番機はさらにひねって5番機が左に、6番機が右にそれぞれ135度のロールを打ってから引き起こしに入る。
それに対し1番機の真後ろ、ちょうど5・6番機に挟まれたポジションの4番機は180度のハーフロール後の引き起こしとなる(1番機と反対方向に開いていく)ため、ロールにかかる時間が最も長い。



・・・ループは頂点を通過し降下に入る。「もうすぐ開くぞ、開くぞ」とドキドキしながら見守る私の前で6機のT-2がブレイクした。しかし、ファインダーの中で四方(六方)に開いてゆくはずの各機のうち、一機だけがどんどん下に進んでいってしまう。広角レンズできれいに開いたところを狙っていた私はやむなくここでシャッターを切った。(思えばこれが、なかなか引き起こせずに地上へ向かって降下していく4番機の、絶望の姿だったのだ)

ファインダーから目を離してその一機に注目すると、やはりおかしい。他の5機は引き起こしを終えようとしているのにさらに降下していく。とうとう滑走路向こうのハンガー越しに見えなくなってしまった。

そして、巨大な火球・・・。

落ちたのは広い駐車場だったという。そのため奇跡的に一般市民の死者はゼロだった。偶然そこに落ちたのか、それともパイロットが一か八かの引き起こしを続行して大惨事になるよりはと、とっさに視界に入った駐車場に「落とした」のか。のちにいろいろ言われることになるのだが、どうなんだろうか。

後で知ったがこの事故の原因は、ループ開始高度が低かったことと、編隊長の「Break ready・・・Now!」コールが遅れたこととが重なった結果、ハーフロールを終えた時の4番機の姿勢・高度ではもはやリカバリー不可能だった、ということだそうだ。

  


私は今これを書きながら一冊の本を開いている。アサヒグラフ1982年8月臨時増刊号『ニュー・ブルー・インパルスのすべて 大空の魔術師たち』というムック本である。(乏しいお小遣いからこの月は『航空ファン』以外にコレも買ったんだったなあ)

初代メンバーの顔写真とプロフィールが載っているページがあり、もちろん亡くなった4番機パイロット高嶋潔一尉(発刊当時ニ尉)も、控えめな優しい笑顔でそこにある。
そしてプロフィールの「一言」。彼のところには「やれることを完全にやる」とある。
ハーフロールを終えたとき、いや、編隊長のブレイクコールの時点で、かなり窮屈な引き起こしを強いられるであろう状況におそらく彼は気付いていただろう。(ブレイク後に編隊長も4番機に対し「遅れた、引っ張れ」と無線で指示している)
でも、4番機として行わなければならない機動に彼は挑んだのだ。「下向き空中開花」を「完全にやる」ために。
残念ながらそれは完全なものにならなかったし、その判断ミスを批難されることは当然かもしれない。結果論だがこのケースでの4番機は、チームの規程通りハーフロールを中止して1番機に追従すべきだったのも事実だ。
が、墜落という事故にあって地上の犠牲者を出さなかったことは、最悪の状況下で彼ができ得る限りのことをやり遂げた、といってもいいのではないか。(重軽傷者や車、住宅等の被害は出てしまったけど)

毎年11月14日はこのことをとりとめもなく考えてしまう日。

“青い衝撃”が墜ちた日・・・。



2011/6/16 追記
下向き空中開花ブレイク時の2・3及び5・6番機のロール角度を訂正しました。
(参考文献 『ブルーインパルス/大空を駆けるサムライたち』 武田賴政著 文藝春秋)

この記事へのコメント

  • エンジェル

    涙・・・
    泣いてしまった。そうだったんだ。

    知らなかった・・・。
    彼は完全に最後までやりとげたんだと思う。
    2005年11月15日 17:24
  • SOAR

    初めての航空ショーに初めての一眼レフ。そんな私の目の前で起こった惨劇・・・。
    あの少年の日を生涯忘れることはないでしょうね。
    2005年11月16日 21:17
  • 咲楽想

    “不在時”にお立ち寄り&コメントいただきましてありがとうございました。
    御礼遅くなりすみません。
    PCもブログも??~ドキドキしながらやっております。
    SOARさんは多趣味で深くていらっしゃるようで、私は浅はかな内容でお恥ずかしいのですが、また笑いに!いらしてくださいね。では☆
    2005年11月17日 19:27
  • SOAR

    咲楽想さん、ようこそ♪
    いえいえ、こちらこそご覧の通りテーマの判然としない内容となっておりまして・・・(^^ゞ
    よかったらまた覗いてやってくださいネ。
    2005年11月18日 00:47
  • パパさん

    今頃こんなレス申し訳ありません。
    私もその事故は未だに記憶から消えません。
    当時中一だった私は母親に前年に連れて行ってもらった86Fのラストフライトが忘れられず、今年も行くんだ!と張り切っていました。
    でも当日は部活動の試合で行けず泣く泣く諦めました。
    試合から帰ってきたら親父が「おい、ブルーが堕ちたぞ」と。
    そんなワケない…と思っていた私が目にしたニュースは、吸い込まれる様に地上に向けて降下する4番機の映像でした。
    あれは忘れられません。
    航空雑誌に事故検証ページの様なページがあり立ち読みでしたが夢中で読みました。
    ロールが終盤に入り各機が引き起こす中ブレイクさせた事などが細かく書いてあったのを憶えています。
    そこに使われていたコピー…
    「一片の花弁は開ききらずに地に堕ちた」
    今でも憶えています。
    今は、小学生の息子の父に私もなりました。
    息子もブルーが大好きで、浜松へ毎年連れて行ってます。
    ブルーの帽子を被り、目を輝かせて大空を見上げる息子に自分の様な想いはして欲しくない。
    華麗に飛び続けてこそのブルーだと思っています。
    いまさらすみませんでした。
    2009年03月10日 18:52
  • SOAR

    パパさん、はじめまして。古い記事を目に留めていただきありがとうございました。

    雑誌で何度も見た6機の青いT-2がタキシーアウトしていくのを興奮しながら見送ったあの日。でも再び目の前に戻ってきたT-2は5機でした・・・。

    20年以上も前のことなのに、あの巨大な火球とその後なかなか消えなかった黒煙の様子を今でも鮮明に覚えています。
    帰りの電車で急に泣きそうになったことも忘れられません。

    現在私は航空関係の仕事をしています。息子さんのように目を輝かせて空を見上げる多くの子供たちの夢や希望のためにも、事故を起こすわけにはいきませんね。

    さあ、今年もブルーのシーズンが始まります。その華麗な演技に、子供だけでなく我々大人も声援を送りましょう!
    2009年03月11日 21:58
  • zap

    昔はしょっちゅうブルーの練習やってましたね。
    わざわざ航空ショーに行かなくてもいいんじゃ?
    と思ったものです。
    当時高校正だった私は、『あれ?急に静かになっちゃった。』と佐鳴台にいて感じたのを覚えています。
    この時はどこに墜ちたのですか?
    慰霊碑とかあるんでしょうか?
    2011年08月06日 12:50
  • SOAR

    zapさん、こんにちは
    基地の北数百メートルの無人の駐車場・・・ホンダの新車置き場だったそうです。4番機の本来のブレイクコースより30度ほど東にずれていることから、パイロットの高嶋1尉がコース上にあった住宅密集地とその先の東名高速を避けて進路をやや右に取り“墜落場所を選んだ”とも言われています。
    自衛隊機の単独事故であり、地上の被害も甚大でしたから公的な慰霊碑等はおそらくないのではないでしょうか。地元の方のほうがお詳しいかと思います。
    2011年08月07日 10:48
  • ろっきー

    あの時、私は彼と同じ制服を着て浜松北基地(当時は南と北に分かれ2つの基地がありました)

    F-86とは違う速度感だけでなく、他の種目でも高度が低いことに当時の勤務していた誰もがささやき合ってました。

    あの高嶋機は引き起こし操作に加え、アフターバーナーに点火し、機首の引き起こしには成功しましたが、機体の沈下は止まりませんでした。


    最期を目撃していた一人として自信はありませんが、あの時、機体は一度右にバンクを取りかけた直後、左にバンクし地上に激突しました。

    東(右)のホンダ工場を避け、北(前方)の東名高速道路を避け、あの狭い駐車場に自ら叩きつけたのでは?と思います。

    私たちは、事故調査でもそう証言しました。

    合掌
    2011年08月17日 22:53
  • SOAR

    ろっきーさん、こんばんは。
    当時基地に勤務されてたとのこと、なるほど、やはり専門家の方がみてもあの日のショーは高度が低めだったのですね。

    墜落直前の写真を拝見しましたが、おっしゃるように姿勢そのものは水平に回復していただけに止まらなかった沈下が惜しまれます。

    A/Bまで焚いていたとは知りませんでした。この行為は紛れもなく生還を目指した証だと思えます。ただ同時に落ちた時のことも考え、機種方位の修正も行ったのでしょう。

    落ちてなるものかというプロ意識と、落ちたときの被害は最小限にしなければというプロ意識。
    彼の頭にあったこの二つの意識こそが、4番機の最期のフライトのすべてだったんだと思います。
    2011年08月21日 23:33
  • すっぴ

    始めまして。

    今、『ブルーインパルスー大空を駆けるサムライたちー』を読んでいる者です。

    華やかなイメージばかりが先行していた中で、この本の内容は重々しいですね。
    私は、今年初めてブルーの曲芸を見ましたが、パイロットが背負う重みは、まったく想像できませんでした。(今でも想像しきれませんが)

    当時を知る方のblogに巡り会えてよかったです。ありがとうございました。

    追伸:恐縮ですが、著者は、武田頼政ではないでしょうか。
    2011年10月18日 16:25
  • SOAR

    すっぴさん、はじめまして。
    今回の震災報道で信じられない光景をたくさん目にしましたが、中でも仙台空港と松島基地の惨状は飛行機好きにとってあまりに悲しく、また衝撃的でした。
    九州新幹線開通イベント参加のため遠征していたブルーが被災を免れたことは、まさしく不幸中の幸いでしたね。

    活動再開を果たしたブルーをこれまで以上に応援したいと思います。

    (著者名の件、「よりまさ」の「より」の字のつくりは、正しくは「一ノ貝」ではなく「刀貝」です。そのとおりの字を当てたのですが、どうやら機種依存文字のようで一部のケータイやPCにおいて正確に表示されない場合があるようです)
    2011年10月21日 01:26
  • さっちぃ

    実家が現場からすぐ近くです。
    当時、実家で私の七五三のお祝いをしていたそうで、その時はものすごい音がしたそうです。
    私は覚えていないんですが、たぶん墜ちる瞬間を見ていたのだと思います。
    (なぜなら、青い飛行機が墜ちる夢を小さい頃からちょくちょく見るからです。)
    今年は墜落から30年でした。
    パイロットの方のご冥福を祈りつつ、ブルーインパルスをみました。
    2012年12月18日 13:51
  • ぷりん

    ブルーインパルスを知ってから、主に気持ちにあるものはミーハーな部分でした。恰好の良さと技術の高さに魅かれて表面のきらびやかな部分しか見ていなかった。最近になって墜落のことを知り、最近になって武田氏著者の本を読んで、そして最近になってyoutubeで当時の墜落映像や報道を見ました。
    死への飛行だったのかと思うと胸が締め付けられる思いです。編隊の中では最年少で4番機に乗り、才能もあり技術も高く、これからの方だったのに、残念というか、とてもつらいです。
    みなさんのコメントを読ませて頂いていても、とても才能のある、実直で素敵な方だったのだろうと想像がつきます。
    あと少しの高度があれば、と考えても仕方ないですが、最後まで被害を少なくするためにあの若さで責任を果たした彼の、生還したかっただろう気持ちを考えると、ただただ涙がでてきてしまいます。
    こうやって、胸に根づいてしまった悲しみを
    偶然見つけたこのブログで伝えることができて良かったです。
    2013年04月26日 00:45
  • つのすけ

    今更のレス失礼いたします。
    当方は入間基地にやや近いところに住んでおり、入間航空祭の近くになると上空で訓練飛行するブルーインパルスを見たことがあります。
    この事故をふと思い出し、何年前だったかと検索してこちらを拝見しました。
    昔の記憶では、地元の空を降下してくるブルーインパルスのT2を見たことがありました。
    今思うとこの浜松の事故の直前、入間航空祭前に訓練飛行している姿だったのかもしれません。
    当方は鉄ちゃんですが、当時この事故の話を聞いて
    「86に比べて高速かつ小回りの利かないT2はブルーインパルスに向いていないのではないか」と思ったものです。
    こちらを拝見していろいろ知らないことがありました。
    今更ですが、高嶋一尉のご冥福をお祈りいたします。
    2017年11月03日 03:32
  • SOAR

    つのすけさん、はじめまして。
    放置状態のブログにコメントいただきありがとうございます。

    今年も盛況のうちに入間航空祭が無事終わりましたね。私は昨年の三沢航空祭以降ブルーインパルスを生で見ていないのですが、ネット等でのチェックは必ずしています。

    おっしゃるようにT-2がブルー機として採用された当時、高速機であることや主翼面積が極端に小さいことなどを理由に「アクロには不向きではないか」という話をよく見聞きしました。
    確かに現在のT-4ブルーのほうがショーとしての見映えは上でしょうね。それでも、あのT-2ブルーならではのスピード感はやはり忘れることはできません。

    陸海空自衛隊機の事故がここのところ続いています。これ以上悲しい事故が起こらないようただただ願うばかりです。
    2017年11月06日 23:45
  • つのすけ

    SOAR 様
    レスありがとうございます。
    仰る通り、このところ自衛隊機の痛ましい事故が続いて
    います。飛行機事故はいっぺんに多数の命が奪われるの
    で辛いですね。
    こちらを拝見したことで武田氏の著書を知り、今読んで
    いるところです。これから事故発生の記述にさしかかる
    ところです。
    私自身はブルーの飛行を生で見たことがありません。
    昔の職場で一緒だった方に元海自のS-61
    (HSS-1)のパイロットだった方がいらして、
    T4のブルーのビデオを借りたことがあります。
    平和だからこそアクロバット飛行が見られる、
    このことを忘れないようにしたいものです。
    2017年11月14日 23:59
  • つのすけ

    ふたたび失礼いたします。
    武田氏の本がなかなか読み進まず、今日
    4章から6章(浜松の事故の記述)を読みました。
    関係者の発言が重く感じます。
    また著者が航空機に詳しい方なので、著者の考え
    にも説得力があります。
    素晴らしい書籍をご紹介いただいたことにお礼
    申し上げます。
    2017年12月10日 17:35

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